1-2 淀川 その一

恵那山を北に見上げる山あいではあるが、平地になった場所は、米が取れる場所として村人の結束も固い。長い年月に渡り住み慣れたその場所から、一家が淀川のほとりに移り住み、商売を始めたのは、惣兵衛の家も五、六代と代を重ねた頃のことであっただろうか。

 

文化五年(一八〇八)の穏やかな初夏が終わり、梅雨が始まって間もなく、尋常ではない雨の量に、人々は口々に「こんなに降る梅雨があったやろうか」と不安を口にした。

 

しとしとと降る雨とは違い、蚕 にやる餌である桑の葉を取りに行くにも、蓑をまとった全身が濡れそぼるような雨である。激しく幾日も降り続ける雨に、米の出来が悪くなる、では済まないような暗い予感を村人にもたらし、祈るような気持ちで明日は晴れますように、と黒々とした雲を抱き続けたままの空を見上げぬ者はなかったが、その身体の芯が冷えるような恐れはすぐに現実のものとなった。

 

ごおっという地鳴りに、すわ地震かと家の外に飛び出した者の目に飛び込んで来たのは、迫り来る黒い壁であった。それは、恵那山を守るように屏風の形をして立つ前山が、根こそぎ溶けて、中津川の村々のすべてを飲み込んでしまうのではないかというほどの山津波で、長年丹精込めて作り上げて来た田畑、家をすべて一瞬のうちに土 砂に埋め尽くしたのであった。

 

 

 

今、八代目となった惣兵衛は宗泉寺に、盆の墓参りをし、長男と次男に墓を洗うのを手伝わせながら、幼い頃から自分も何十回と聞いた父祖の苦難の歴史を語っていた。大水害のあと、命からがら生き残った者は、親戚に身を寄せなんとか生活を送って行かねばならなかった。流転も離散もしなかったのはせめても幸いなこと、その日その日を人足をしたり、小商いをしたりしてなんとか宿場町に近い淀川のほとりに家を構えるまでになった曽祖父、祖父の苦労を思えば、いまのお前たちがどれほど幸せかをよく知らんとあかん。

 

こうした口癖で終わるのもいつものことで、「お父ちゃん、今日もおんなじことおんなじ調子でしゃべっとったなあ」と墓参りから解放され、棒切 れを掴んでそこらじゅうを叩き回りながら蝉を見つけては捕まえようと木に登りしながら、四ツ目川を駆け下りるようにして、兄弟で笑い転げるのも常のことであった。

 

惣兵衛の家は、中津川宿の本陣を木曽に向かい、宿場町の街並みが途切れる手前に中山道を横切るようにして流れる淀川の一町半ほど下流にある。手堅い商いを重ね、ようやく「大惣」と看板も出せたのはひとえに先祖代々の農民としての辛抱強さのおかげであろうか、しごく穏やかな性格で、商人は腰を低く、挨拶は丁寧にと家の者にじゅんじゅんと板の間に置かれた長火鉢の前で諭すのが毎月一日に神棚と仏壇を掃除してあらためるときの習慣であった。

 

兄弟が走り帰ってくると、とたんに家の中は賑やか になる。おっとりとした惣領息子とは違い、次男の常吉は「あかん、こりゃ火の玉じゃ」と子守がさじを投げて泣いて子守を嫌がるほど疳の虫が強く、体の小さな子守の少女におぶわれていれば、髪を引っ張りして泣かせ、歩かせれば恐ろしい勢いで走り回って、目の前の淀川に落ちるのではないかと肝を冷やすのも毎日のこと、子守がヘトヘトになってぐったりと井戸の脇で眠り込んでしまうこともあった。女中頭は叱りつけたりなだめたりしてなんとか常吉の子守をさせるのに一生懸命で、時にくどくどと繰り言を主人に言うこともあったが、惣兵衛は、「いずれ家を出て一家をたてにゃならん次男坊なら、そんくらい気の張っとるほうがええわ」と笑って取り合わなかった。

 

 

 

つづく