1-3 淀川 その二

常吉は走り回れるようになるが早いが、坊主頭に絣の着物で兄や近所の子供達と野山を駆け回る毎日だったが、時折冒険心を起こして、中山道に皆で入り込むこともあった。

 

宿場町らしい幅四間はある広い道は掃き清められ、ちり一つ、石一つ落とすまいという町衆の気概が感ぜられる。その東西に十町七間もある中津川宿の端から端まで走り抜け、大人たちに子どもは来たらあかん!と追い払われ、商家の丁稚にはわざと柄杓で水をかけられることがあっても、荷を積んだ馬や、菅笠に脚絆姿の旅人を追い越し、振り返りして眺めるのが面白くてたまらない。

 

中津川は、中山道六九次のうち、江戸から数えて四五番目、美濃路の最後の宿場町として、京からやってくる旅人には険しい木曽路の手前で覆いかぶさるような山路を越えるための英気を養うところ、木曽路を抜けて来たものには、ようやく鄙から里の賑わいを感じることのできる宿場町であった。

 

当然旅籠も多く、上級武士が泊まる本陣から、商人向けの街道を少し外れた小さな宿まで数えれば三十軒あまりはあるだろうか。四ツ目川にかかる橋を挟むようにして、間家、本陣、造り酒屋と大店がずらりと並び、壁は漆喰の白さに輝いてまた町衆の格子窓とは違った格の高さが感ぜられる。子ども心には本陣を京の方向へ過ぎたところの、道が直角に二度曲がるのがことにおもしろく、追いかけっこをし ながら、ふと前を走る年長の幼馴染や兄の姿が見えなくなるのを夢中で追いかけて中津川の大きな流れを見渡し、恵那山と前山のすがたがすっかり見える橋まで走るのをやめなかった。

 

常吉の子ども時代は、安政、文久と慌ただしい幕末の動乱期が始まる頃であった。ペリーが黒船で来航したという世にも恐ろしい噂話は、宿場町を駆け巡ったが、それでも木曽川を渡る小舟以外の船を見たことのないほとんどの町衆にとっては、どれだけ想像を巡らせてもいかほどの大きさのものかはわかりようもなく、遠いお江戸のお話に過ぎなかったのではなかろうか。それでも、大人たちが夢中で話す世の中が激しく動く時代の空気はこの片田舎の宿場町にも届いて来、いよいよご維新の頃には勤王の志士たちがそれぞれ歴史の舞台を行き来するようになるのだが、それは少しのちの話である。

 

常吉は六つになるのを機に寺子屋に通い始め、丁稚奉公 に入ったのは数えで十歳の春であった。大惣の跡取りとなる兄は半年ほど他家に預かってもらうことを何度か繰り返したことはあったが、父母にとって体の小さい、やんちゃで困らされ通しであっても、まだいとけない次男坊を厳しい丁稚奉公に上げるのはもちろん始めてのことで、母は涙を隠そうともせず袂を押さえ続け、父は常吉を日頃は正月のときにしか入らせない座敷に呼び寄せて膝を付き合わせて、心得を説いた。

 

「常吉よ、厳しいと思うが、修行と思い辛抱せよ。厳しければ厳しいほど、のちのち大きく実るというでな。ええか、辛抱やに。商人はやっぱり街道筋で店を持つのが念願というものや。お前はいつか立派な商人になって、大きな店を構えてくれよ」

 

 

つづく