1-6 玉繭 その二

明治十年の春が明けた。

 

正月の祝膳を前にして、常吉は背には床の間に清々しく旭日の掛け軸をかけて、珍しく笑顔であった。昨年の秋に世話する人があり、三里ばかり中津川宿から離れた集落の安田という家から数えで十六歳のタカを娶ったばかりの常吉は、初めて当主らしく、座敷に正月のしつらえを整え、朱塗りの祝膳も道具屋に誂えておいた。

 

正月の朝、「まずは若水や!」と年末から妻に言い聞かせておいたとおり、井戸から最初の水、若水を汲ませ、それを神棚に備えた。そして妻を従わせて、手をぽんぽんと叩いて合わせ、女中に手伝わせながらまずは二人 になった家族の最初の屠蘇を酌み交わしたのであった。

 

これまでの正月は、主家である山田商店と実家の大惣、得意先に正月の挨拶めぐりをし、しこたま飲まされた後は、丁稚をはじめ番頭、女中に至るまで薮入りで家に戻してしんとした仕事場を眺めながら、一人でゆっくりと白湯を口に運びつつ、これから一年の計画を練るのが常であったが、今年は初々しい妻と女中に酒の用意をさせ、自身も挨拶に出ては家に戻り、また来訪する客の相手をし、時折「おい、酒が足りんぞ」と妻を急かしながら、酒を飲み交わすにぎやかな正月となった。

 

常吉は、玉繭の製糸を思い立ってから、一日の仕事を終えたあと夜な夜な一人で何かコツがあるはずやとうめくように工夫を重ねつつ 、糸を繰り続けた。毎夜血走った目で繭を煮続け、糸を引き続ける常吉を「一晩中臭くてかなわんわ、いったい何しとらっせるの」と近所の者に気味悪げに恐る恐るたてつけの悪い戸から覗かれては、問われるほどであったが、そのうち繭を煮る温度や座繰りするときに糸を切らさないコツを少しずつ貯めていたようで、近隣の農家から若い女を幾人か雇いして、小さいながら工場(こうば)を持つようになるまでにさほど時間はかからなかった。

 

折しも、欧州で蚕の病が流行し壊滅的な被害となった時期と、ご維新の開国で諸外国との交易が本格的なものとなった時期が重なり、生糸と絹製品は日本の重要な輸出品となっていた。外貨獲得のために養蚕と製糸を奨励する国の方針もあり、売れる となれば、農民たちの蚕を飼う意欲もますます湧く。その繭を買い取って製糸する工場が全国ででき始めるその産業の黎明期であった。

 

二頭か三頭のお蚕さまが一緒になって一つの繭を作ってしまうのは、百のうち一つか二つというところであったが、繭が増えれば、そのぶん玉繭も増える。糸を引くには手間のかかる玉繭は近代化されつつあった製糸工場では見向きもされなかったから、「ほーかるもんやで、持っていって」と安くても手放す養蚕農家は後を立たず、ほとんどただのような値段で持ってくる玉繭をさばくのに、さらに大きな工場が必要となっていった。

 

 

 

つづく