1-7 玉繭 その三

中山道中津川宿を横切る三本の川のうち、一番木曽に近い淀川から数軒のところに工場を構えたのは、このころのことであろうか。淀川沿いの実家にもほど近く、念願の街道筋に最初は菅井家の隣の民家を借りて玉繭の工場と住処を同じにしていたが、注文が増えれば人も増やして繭を煮るための鍋をならべるにはすぐに手狭になってしまった。そこで、あばらやだった西隣を買い取り、一軒を床を取り払ってほぼ土間にして工場にし、もう一軒を母屋とした。商いは順調すぎるほど順調で、すぐに二軒を合わせて普請し直し、間口八間の街道沿いに堂々たる建物を建てた。

 

丁稚奉公の友吉がまだ幼さの残る小さな体で、表の板戸十六枚をふうふう言いながら外し終える頃には表をきれいに掃き清めて、水を撒き、神棚に手を合わせる常吉の姿があった。その真剣そのものの姿は毎日変わらず、中津川を見下ろす高台にある東円寺の鐘よりも正確、とひとつ町の名物ともなっていた。

 

「おはようございます。今日も冷えるねえ〜。」「薪がちょっと足らんくなるんやない?友どんひとっ走り、急いで持ってくるように言いにいかんといかんわ!」街道から少し外れた農家から、若い娘たちが朝通って来る。途端に工場はにぎやかになり、真冬の冷たい土間からも湯気が上がるかのようであった。

 

土間の中央にはずらりと奥に向かって竈(かまど)を並べ、下から小枝をくべながら火を焚く。この火加減がむずかしく、焚き過ぎれば繭が煮えすぎて、艶がなくなり固い糸になってしまう。「これじゃ、にすいわ!」と湯の立ち方が鈍い、と文句を言われるほど小さな火になればいつまでたっても繭に火が通らず糸を引く ことができない。この火加減を上手に塩梅するのが火の係りとなった女子衆のつとめで、全体を見ながら、火が鈍くなったり強くなりすぎたりしないよう心配りをするのは、勤めて一年半は無理というのが女子衆の中のささやかではあるが重要な常識であった。

 

壁のほうに女子衆は簡素な腰掛けを作り、皆一様に表玄関を向いて並び、左手で繭からの糸を支えながら、右手で糸繰に絹糸を巻き取って行く。ところどころ節のある玉繭からの糸は、俳味があると、江戸や大阪のご隠居さんが着らっせるのやと、と知ったような口をきく酒屋の御用聞きもいた。

 

「常吉どん、うまいこと竈を作らしたねえ」と来た客が感心する続き竈だが、これはある年の秋、日頃から神道に崇敬深い中津川の町衆で寄り集まって、恵下を超えて阿木へ向かい、大野にある由緒ある八幡神社で見かけた六連竈を見てひらめいたものであった。

 

恵那神社の遥拝も兼ねた八幡神社では秋祭りの日、六つならんだ竈で炊き出しが供される。それは中津川あたりはおろか、全国を旅する呉服商の主も、「こりゃ珍しいもんやねえ。こんなに竈を並べるとは」とつぶやく石でできた竈であった。互いがくっついているために熱の分散もなく、薪も少なくて済むのやに、と自慢する氏子の話を聞きながら、そこに掛けられた鍋からいただく汁は、山の新鮮なキノコや野菜がたっぷりと入り、滋味豊 かで、穏やかな秋風に久方ぶりにのんびりと身も心も解放された一日であった。

 

黄金色の田んぼがきれいに刈り取られ、束にされた 稲が気持ち良さそうに陽光を浴びている。少々酒も入った後のこと、たったいまありがたくいただいたごちそうを思いながら、またのんびりと皆で家路に着く途上、「ああ、あれや!いま見てきたあの竈や!」と常吉の中で、雷が落ちるように閃いたものがあった。「常吉つぁん、どうしらした?」と、突然、歩みを止めた常吉を同行の人々がいぶかるが早いか、「ちょっと用事を思い出しましたで、先にご無礼します!」とあっけにとられる皆を置き去りにして、常吉は転がるように中津川へと走り帰って行った。

 

すぐに大工の棟梁を呼び、その棟梁が左官屋を呼びして、絵図面を描きながら、続き竈を作ったのは、それから一月も立たぬ頃であった。神社で見た続き竈は石で作ってあったが、常吉の工 場には屋根 があるから左官でよかろうという目論見は見事に当たり、作業しやすく、薪も最小限で済む。そこにずらりと頬を紅色にした娘たちが並んで糸を引いていく景色は、湯気もあいまって熱気に包まれている。

 

 

つづく