1-8 相場 その一

夜、人目をしのんでホタホタと戸を叩く音がする。

 

常吉はその音を聞いただけで、それが時間はずれの買い物客か、それともあの用かがわかる。「開けてやり」と読み書きそろばんの稽古や片付けにせわしなくしている丁稚に命じ、こればかりは番頭ではなく自分が対応した。

 

「あの用」とは、借金の申し込みのことで、小さな商いをしている者や、職人が節句や晦日の支払いに詰まって、金を借りにくるのである。もちろん中には裏店でひそかに開かれている賭場の掛け金を借りに来るとび職や大工もあったが、小さい町のこと、どこの誰が来ているか、返す当てがあるかどうかということは親類縁者に至るまでしっかりとわかった上での貸し金であったから、逃げられて貸し倒れになるなどということはない。

 

常吉は鷹揚に立ち上がると、帳場の少し奥に作った貸し金専用の小引き出しを開け、申し込みに来た者を呼び寄せ、そこから商いの大福帳とはまた違った、懐に入るほどの小さな帳面を出した。その帳面に細い筆で丁寧に名前と日付、金額を書き記し、控えと金を出す。字の満足に読めぬものも多かったから、何日までにいくらいくら持って来ないかんでな、と利子を口頭で伝えるのも忘れなかった。

 

「じっきに返しに来ますで」と卑屈に腰を折って、滅多に見せぬ笑顔までつけて大事そうに金を懐に入れながら夜道をかけていく人々の姿を見送るとき、わずかな哀れさも心をよぎらぬではなかったが、銀行も個人向けの金融業もない時代にしっかりした商売の店に借りにいくのは当然のことであった。本業の玉繭の製糸は順調でつまり潤沢な資金があるという証明でもある。そこから得られる利子はやがて大きなものとなって行ったし、なにより金が貸せる店という信用は何物にもかえがたく、常吉は一人前の商人としての信頼を得はじめているのであった。

 

「常吉つぁん、だいぶん、ええらしいね」と商売のことを話しかけられたのは掛け取りから帰る道すがらであった。顔見知りの酒屋の店主であった。木曽のほうでも最近は酒の需要が 増えて、なかなか商売になる、といった話を店先で茶を出されながら語っていたが、そのうちちょっと声を落として口元に手を添え、「相場はやらんかね?」と小さく笑いながら言った。「相場?」「米の、な」

 

聞けば、酒の原料である米の出来不出来はその年の酒の商い全体に直結する、それを最近では相場として、扱っているものがある、とのことであった。何が何やらわからないが、「なに、ちょっとした小遣い稼ぎになるとおもったらええわ。ちょっとの金で始められるしな」と勧められると、そこですっぱり断るのもなんではあるし、と掛け取りで持ち帰る金の一割ほどを渡して、それきりしばらく忘れていた常吉であった。

 

ひと月ほどしたある夕方、店じまいして表の板戸も一枚を残 して立てたあとのこと、酒屋の店主が不意に訪ねて来た。「常吉つぁん、来ましたで」とここではなんだからとわざわざ奥の座敷に案内させ、二人きりになって、膝を寄せるようにする。ぽかんとしていた常吉であったが、ああ、相場か、忘れとった、と言いかけた矢先、店主のふくらんだ腹から出されてざらっと並べられたのは預けた金の十倍にはなろうかという大金であった。思わず息を飲む常吉に、「これが相場や、笑いが止まらんに」と小さくくっくと笑いながらその金を差し出すのであった。

 

 

つづく