1-9 相場 その二

当時の米相場は、いわば金融商品のようなもので、預けた金が天候によって、上がったり下がったりする。どこそこで大雨が降った、あそこじゃ日照りだ、といった短期的な情報で、その時々の 米の出来の予想をする。

 

当然相場は常に乱高下し、賭博の要素も強かった。こづかいをちょっと増やしてやろうかという軽い気持ちで始めた米相場だったが、最初の二度、三度と預けた金が五倍、十倍になったのが不運と言えば不運であった。それまで固い商人としての矜恃を持っていた常吉であったが、こんなにたやすく金が増えれば、面白くて仕方なくなる。「毎日朝から晩まで働きどおしでやっと稼げる金が、こんなに簡単に増えとったら、まあやめれんわ」

 

毎朝、空を見上げては天気に一喜一憂するようになり、当然、本業への熱意も薄れがちとなっていく。そして賭け事の常として、相場が下がればすぐに「稼いだ」はずの金は消えてなくなる。負ければうなだれてこんなものに大事な おたからをつぎ込むなんて、と思いつつもその負けを取り返さねば、とつい熱くなっているうち、資金を見越した相場師から、信用買いをすすめられた。「なに、これで百倍になるに」と甘言に乗り、ほくそんだのは素人の甘さであった。

 

明治十四年、全国的な米価の下落があった。当時はまだご維新から日も浅く、近代国家制度をなんとか形作ろうとしていた頃で、政府発行の紙幣の価値はまだ低いものであった。この年の十月に大蔵卿に就任した松方正義は、近代的な貨幣制度を確立するために、庶民には苛烈ともいえる政策を次々と打ち出した。江戸時代は貨幣と同じ意味を持っていた米を、農産物として安定して取り扱うために米価は抑制された。これは貨幣を経済の中心にするための 政策であったが、そんなことを知る由もない常吉のような者にとっては、気づけばあっという間に相場は下落しており、手仕舞いに慌てても、すでに時遅く、驚くような額の借金だけが残った。

 

それでも本業さえあれば、と踏ん張ってはいたが、米価の下落は農村も圧迫し、不景気の風が強く庶民を吹き付けて、安く仕入れていた玉繭も養蚕はやめたという話ばかり、何よりも絹糸が売れない、ということになれば工場を動かすこともままならなくなったのは、明治十五年の秋も終わりの頃であった。

 

あれほど熱気に満ちていた続き竈に火が入らなくなり、冷たくがらんとした土間には、常吉のため息と赤ん坊の鳴き声だけが響く日々が続いた。 相場を当ててからというもの、旦那衆よろしく豪快 に買い揃えていた骨董品や家財道具も、かき消すように売り払われ、借金の当てにされた。ぼんやりと着流し一枚で、上がりはなに座り込み、さすがにふんどしとこの擦り切れ着物だけは残しとってくれたわ、と血も涙もとっくに忘れたといったような、渋く固まってしまった顔の借金取りを思い出していた。外には砂ぼこりが風に吹かれて舞っている。

 

日々が空しく過ぎて行くようで、常吉はたまらなかった。妻のタカと産まれたばかりの長男の悦吉はいったん妻の里に預けて、自分は実家に身を寄せたり、町をうろつく日々を二ヶ月ほど続けていただろうか。実家の大惣の墓参りにふらりと出かけたのは、昨年までは豪勢な正月のために女衆に膳を出して洗い、干し、出入りの大工に欠けた瓦 があれば直させ、門松の指示を大声でしていたことをぼんやりと思い出し、さて今年の大晦日はどうやって節句の掛け取りから逃れるかばかりを考える師走のことであった。

 

 

つづく