大正期のヤマツ食品(当時は「前田商店」)

 

 

 

ヤマツ食品株式会社は、創業慶応二年(1866年)。

 

八代目惚兵衛の次男である、前田常吉が
ここ中津川に創業いたしました。
爾来、中津川の土地で小さな商いをさせていただいております。

 

前田常吉の次男は、長じて日本画家前田青邨となりました。
そのころの様子はどうだったのか、歴史をたどり、ルーツを調べるうちに、
元禄時代に中津川に流れ着いた僧侶が、我が家の先祖とわかりました。

 

これは、流れ着いた僧侶から、初代常吉の奮闘、
そして常吉の次男廉造が、日本画家前田青邨となるまでの軌跡を、
物語としてまとめたものです。

 

史実に基づいたフィクションとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

 

 

第一章はこちら

 

作:池田暢子

2-1 廉造 その一

「寒いはずや、恵那山真っ白やわあ」通いの女中が弾むような声で叫ぶようにして入ってくると、まだ寝ぼけまなこだった悦吉を始め、次男の廉造、兄たちを追ってよちよち歩きの由助まで、走るようにして外に出、はすむかいの「すや」越しに恵那山を仰ぎ見た。笑いながら母のタカも子どもたちを追ってきて誰にともなく、「あー...

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2-2 廉造 その二

常吉がそれまでの玉繭の商いを続けられなくなったあと、乾物を売り歩きながら少しずつ店を立て直し、それが安定してきたのはつぐみの麹漬を売り出すようになってからのことである。数年で再び、旦那衆の一人に数えられるようになるほど、持ち直したのはひとえに「火の玉」と呼ばれた一途で熱い性格のおかげで、あれ以来相場...

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2-3 廉造 その三

常吉の店は、木曽にある小さな店に様々な食料品を送り出すのも大きな商いになっていた。正月前のこの時期は、その木曽からの注文も増える。つぐみの麹漬は待ったなし、漬け込みを急がねば傷んでしまうし、加えて店頭に買い物に来る客も多い。店の前の駒つなぎに馬をつなぐ順番待ちをするほどで、毎晩夜なべしても、黒山の人...

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2-4 本郷根津 その一

廉造が小学校を卒業する前年のこと、幼い妹であるフデが長女に続いて、ひとりまた天に命を帰したのは、桜が固い蕾をほどこうとして、ほろりほろりと気の早い一輪、二 輪を咲かせはじめたころのことであった。身篭って、大きな腹をした母であるタカの嘆きは尋常ではなく、小さな声で名を呼びながら、まだ生え揃わぬ前髪を何...

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2-5 本郷根津 その二

絵描きになりたい、と夢想はしても、それで食べていけるわけがないと父はにべもなかった。無理もない、絵といえば浮世草子か、襖絵か、まあよくできて山水画を軸にするか、といった時代のことである。絵を見たとしても、たんなる飾りといったところで、それが誰がどのように描いているかなど、想像しえない。それでも商売が...

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2-6 本郷根津 その三

いつものように慌ただしい秋と冬が過ぎ、春には、手紙のやりとりで廉造の東京への進学が決まった。その前年の明治三十年に設立されたばかりの私立学校、京華(けいか)中学校は、一高への進学校として設立されたために教師も優秀との評判で、何よりも本郷龍岡町にあって伯父の下宿屋からは通うのにも東京帝大を挟んで目と鼻...

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2-7 本郷根津 その四

人力車に運ばれ、名古屋停車場の待合に夕刻から待つ廉造は、真夜中過ぎにに出立する蒸気機関車が到着したという駅員の大声に、うとうととしかけていた体をバネのように起こして、人々とともに乗車口へと向かった。眼前に現れた蒸気機関車は、荒い息を上げるように白煙を天に吐きつつ、駅のランプに黒光りする車 体を誇らし...

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2-8 本郷根津 その五

廉造には、一階の家族の居室の隣にある四畳半の部屋が与えられ、伯父やその妻、下働きの女中までが朝餉の仕度、掃除、洗濯、夕食の世話に働き続ける東濃館での賑やかな毎日が始まった。下宿をしている学生は、ほとんどが東京帝国大学の学生で 、常時二十名を下ることはなく本科生も専科生もいたが、どしどしと歩く姿は見上...

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2-9 帰郷 その一

熱海を過ぎ、鈴川に着いた二人は小さな宿屋に宿をとった。あくる日、さっそくに診察に訪ねていったのは青山というそのあたりでは、評判良く、いわば名医として信頼されている医師であったが、じっくりと廉造のからだを検分したあと、伯父を呼び、静かに「これはだめだから故郷に帰って療養しなさい」とすすめた。つまるとこ...

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2-10 帰郷 その二

廉造は卒業した尋常高等小学校の補修科に籍をおくことになった。なんとかして中学校卒業の資格を得て、美術学校に入りたいという願いはまだ心の中で炎となっていた。この頃になるとすっかり体力を回復し、ひんぱんに写生に出かけるようになっていた。一度は死病にとりつかれたかと覚悟もした我が子が治りさえすればよいと思...

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2-11 神楽坂 その一

「停車場ができるげな(らしい)」「テイシャバ?」「いや、ステンショというげな」国鉄は少しずつ鉄道網を全国に広げており、名古屋まで伸びた鉄道が多治見まできたのが明治 三十三年のこと、この二年後の明治三十五年十二月には中津川への鉄道が開通する。十七歳の廉造は、明治三十四年鉄道工事を横目に、少しずつ紅葉は...

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2-12 神楽坂 その二

「やあしばらく」と大きな声で三人を迎えた紅葉は、紺色の着流し姿で、立派な髭をたくわえ堂々としたふるまいだが、いかにも面倒見の良さそうな人の良さが笑った目から見て取れる。紹介されしゃちほこばって挨拶する逸太郎と廉造であったが、大島先生がてきぱきと要件を説明すると、「よしわかった。」と請け合い、あの絵描...

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2-13 神楽坂 その三

梶田半古の弟子は数名いたが、皆通いで住み込みは廉造ひとりである。空が白み始め、障子に庭木の影が映り始める。中庭の枝にでも止まっているのだろうか、雀のチュンチュンというさえずりが聞こえてくる。この朝の静寂をまどろみながら味わう間もなく「わあー」と大声を上げながらがらりと書生部屋の襖が開けられ、二つにな...

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2-14 半古塾 その一

まずはすべての梶田半古の弟子、というよりも当時のすべての歴史画家が学び、取り組んだのは「前賢故実」の模写であった。明治初年に刊行された、全十巻からなるこの木版本は、 江戸に生まれた菊池容斎が歴史的人物を考証して、その姿を描き、略歴を書いたものである。近代歴史画の画題はほとんど網羅されているといっても...

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2-15 半古塾 その二

昨日、通いの手伝いの婆さんに命ぜられて軒にかけた干し柿の朱が小春日和の真っ直ぐな光に照らされている。この日、月に一度の研究会が梶田半古の家で開かれていた。一番年若の廉造は、ごわりとした薄緑の狩衣を着つけさせられている最中で、ぐるりと先輩塾生と梶田半古に囲まれている。着付けも勉強のうち、と二人の門人が...

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2-16 半古塾 その三

年明けすぐに始まった制作は、まずは小下図を描いて半古のもとに持っていき 、細かい指導を受けて直し、ようやく構図が決まると尺五に定規を用いて引き伸ばしていく。尺五とは一尺五寸のことで、掛け軸にする絵の決まった寸法であり、横幅はほぼ四十センチといったところであろうか。その直し方を兄弟子に教わりながら、ま...

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2-17 青邨

師の前に手をついて礼を述べると、嬉しそうな笑顔を見せた半古は、「もう評判になっているぞ、十八歳の子どもが描いた絵だとな」と話し、「すぐに買い手がつきそうだ」と夢のような話をする。実際に、すぐに買い手がつき、十二円という大金で売れたとの知らせに、喜び余って、本郷根津の伯父のところまで走って知らせに行っ...

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