2-10 帰郷 その二

廉造は卒業した尋常高等小学校の補修科に籍をおくことになった。なんとかして中学校卒業の資格を得て、美術学校に入りたいという願いはまだ心の中で炎となっていた。

 

この頃になるとすっかり体力を回復し、ひんぱんに写生に出かけるようになっていた。一度は死病にとりつかれたかと覚悟もした我が子が治りさえすればよいと思っていた常吉も、体が動くようになれば遊ばせておくわけにもいかない。尋常高等小学校の補習科に籍を置いていても、家業の手伝いはもちろん、掛取りを命じたりもした。

 

ただし、廉造は集金に木曽へと回っているはずがいつまでたっても帰ってこず、暗くなりはじめると番頭や女子衆まで不安げにウロウロと落ち着きをなくすのを見て、常吉は苦々しく思うと同時に、 まさかとは思うがどこかで懐の金を狙われて襲われたりしとらんわな、と心を不安な雲が覆い始める。奥の女子衆が、ランプに火をいれ帳場に持ってきた。そこに「ああ戻っといでた」と店じまいをはじめた丁稚の大声を聞くと憂いのある目元とは裏腹に、満足げな笑みを浮かべたのをあわてて引き締める廉造が帰ってきた。

 

「遅かったな」と声をかけられると「ただいま戻りました」と言いつつ廉造が差し出した袋には、常吉が思っていた半分ほどの集金しか入っておらず、手に抱えた写生帖だけがふくらんでいる。

 

呆れた常吉が「なんやこんだけばかか。お前また絵描いとったんか」と言うと、うんともふんともつかぬ言葉を残してすいっと奥の茶の間に入って行く。まったく悪びれる風もなく、今日してきたばかりの写生を畳に広げるので あった。それを妹のすずは「わあ、にいさまお上手」と満面の笑みで手を叩いて触ろうとして、手を払われている。

 

早世した妻の面影を宿す長男の悦吉はしっかりとしているが穏やかな気性で、店を任せるにはまだ若いがまあ安泰という気もする。しかし次男の廉造はこのまま家にいても店を継ぐわけではなし、部屋住みが耐えられるような性でもなし、さりとて商売人の子としてどこかに奉公に出すにも、このような絵で頭がいっぱいではすぐに追い返されるのが落ちであろうと容易に想像が付く。

 

商売人の倅なのに、と思う反面、死んだ妻のはっきりとは言わずとも、命にかえても絵の道を貫かせてやりたいという表情を、寝付いたある日のこと、じっと常吉を見つめて「廉造をおたのもうします。おねがいいたします」と呟いたときのあの衝撃をまざまざと思い出す。

 

あんなに絵が好きで、一度は上京も許した手前 、このままこの地に埋れさせるのはむごい気もする。三年前の上京時にはどうせものにはならないであろう、絵描きなんぞで食べていかれないことがわかれば帰ってくるであろう、と思い、それが入学して間もなく病を発したと言う報せに目の前が暗くなる思いであったが、そこは生来の火の玉と言われた気性を発揮して、伯父の意見に同意しすぐに転地させ、治すと言う気概で持って実際に廉造は治癒したのであった。あのとき、妻を失ったときの後悔で、すぐに療養に踏み切れたことがなによりも治癒に向かわせたと信じている。そして自分と当の本人の絶対に治すという強い気持ちがなければ、病魔に肺を食い破られていたにちがいない。

 

そう考えれば店のことにはまったく気持ちが向かないながら、覇気のな いような細面でありながら、自分と同じ火の玉の性を持っているのかもしれぬと考えざるを得ない。「けっきょく親子やもんなあ」とひとりごちて、常吉は悦吉を呼んだ。

 

「もういっぺん東京へやるかな」「はい、それがええと思います」誰を、とも聞かず悦吉も同じ思いだったと見え、これで話はまとまり、明治三十四年、廉造は再び上京するのである。

 

 

つづく