2-11 神楽坂 その一

「停車場ができるげな(らしい)」「テイシャバ?」「いや、ステンショというげな」国鉄は少しずつ鉄道網を全国に広げており、名古屋まで伸びた鉄道が多治見まできたのが明治 三十三年のこと、この二年後の明治三十五年十二月には中津川への鉄道が開通する。十七歳の廉造は、明治三十四年鉄道工事を横目に、少しずつ紅葉はじめた木曽の山々を振り返りながら、人力車に乗って多治見まで行き、鉄道に乗って名古屋からまで、そしてふたたび東海道線を東京へと向かったのであった。 三年で東京はまたおおいに変わっていた。人が増え、忙しげに行き交う大荷物の大八車の数も多い。馬が轍に乗った車を引き路面を走る馬車鉄道もずいぶん増えたようである。

 

再び、本郷の伯父の東濃館に寄宿することになったが、今回はこれといって学校を決めているわけではない。遊んでいても仕方が無いが、夕食が終わり、片付けを手伝って湯から上がった廉造に「何になる心づもりかい?」と聞いてくれたのは、伯父の息子である伊藤逸太郎であった。

 

逸太郎は、醫學大学薬学(現在の東京大学医学部薬学科)を卒業し、北海道旭川において、アルコールの製造の初期に携わった。「神谷バー」で有名な、神谷伝兵衛が中心となって設立された日本酒精製造(株)である。当時アルコールが近代化に重要な位置を占めながらも、米を使った酒精しかなく、主食である米以外の方法でアルコールがを製造することが急務であった。逸太郎の論文は薬学雑誌第二百十六號(明治三十三年)に掲載されているが、杏仁水という杏の種から抽出するアルコールについての研究を行っていたようである。この論文によると「医科大学薬学選科生」とあり、本科生とは違い、履修する課 目が少ないこともあり、卒業しても学士号は授与されない選科生であったが、卒業後は北海道のアルコール会社に勤めにでることが決まっていた。

 

廉造は、聞かれるまま、座り直して「絵描きになりたい」と真面目な顔をして告げると、しばらく逸太郎は思案していたが、「大学時代に薬学を教わった大島先生という方が、画がお好きだから聞いてみよう、どなたか画家をご存知かもしれない。」

 

もちろん、伯父もそれはいい、ぜひ聞きに行って来いと手土産をあつらえてくれ、次の休みの日に、逸太郎と廉造は大島先生の家を訪ねることとなったのである。大島先生は、話を熱心に聞いてくれたあと、「絵は好きだが、画家のことはよく知らない。だが、尾崎紅葉なら知っているかもしれない。相談してみよう」と言い、後日あらためて訪ねることとなった。

 

尾崎紅葉をたずねることとなったのは、空が高くなり、東京の空っ風に下駄の音がわずかに高くなったころのことであった。紅葉は、そのころ金色夜叉を読売新聞に連載しており、当代きっての人気作家としての地位を不動のものにしていた。そんな有名人に出会ったこともなく、どのようにふるまえばいいかもわからず緊張し切っている廉造に、大島先生と逸太郎は作家としての尾崎紅葉の名声や、新聞連載の話をあれこれと話しながら本郷から西へと向かっていた。

 

あまりにも金色夜叉が人気で、購読者が増えていること、世の美人はこぞって女主人公である宮のきものに憧れて、真似ようとしたことなどを語るうち、「この坂の上だ」と大島先生が言い、紅葉の家は神楽坂に向かう道をやや南に入っ た坂の上にあった。「来客も居候も多いから、大きな家を借りたんだそうだ」と大島先生が指差す家は、さすがに人気作家だけあり立派な門構えに、さぞ二階からの景色がよかろうという場所である。

 

門を入ると鉤型に大きな縁側があり、その明るさに家というものはどこか暗いものと思っていた廉造は驚いた。取り次いだ書生に案内されて二階へと上がると、八畳と六畳間が襖を開けてつながっていて、おびただしい数の本と小さな文机の前にふっくらとした座布団が置かれている。ここを書斎と応接として使っているようで、手前の空いた場所に座布団を勧められ、ふっくらとした頬の手伝いの小女から茶を出されて、廉造はキョロキョロと まわりを見回した。窓の外からは広い空が見える。

 

 

つづく