2-13 神楽坂 その三

梶田半古の弟子は数名いたが、皆通いで住み込みは廉造ひとりである。空が白み始め、障子に庭木の影が映り始める。中庭の枝にでも止まっているのだろうか、雀のチュンチュンというさえずりが聞こえてくる。この朝の静寂をまどろみながら味わう間もなく「わあー」と大声を上げながらがらりと書生部屋の襖が開けられ、二つになる男の子が、眠りこけている廉造に馬乗りになって、起こすことからこの家の一日が始まる。

 

廉造が住み込みを始めるちょうど一年ほどまえのこと、梶田半古は二度目の夫人である北田薄氷を肺病で亡くしていた。最初の夫人を病気で亡くしたあと独り身でいた半古に、尾崎紅葉門下の美人の誉高い薄氷女史を尾崎紅葉自身の媒酌で再婚してから、わずか二年の結婚生活であった。

 

残されたのは、乳離れしたばかりの男の子がひとり、それまで世話を任されていた女中は、書生が住み込みになるのを待ち構えていたようで、時分どきや風呂の世話などに自分の手が濡れようとするときには、すぐに「ちょっとこちらへ」と呼ばれて気付けば子守りを押し付けられている。不思議そうな顔をして、廉造を眺めていた博兄(ひろえ)と名付けられたその子も、そのうちに遊び仲間と思うようになったのか 、はっきりとした言葉にはまだならぬものの、中庭の柿の 木の葉が落ちて、朱い実をとってくれろとねだったり、ねこじゃらしを摘めとねだって泣いたり、庭や座敷をところ構わず走り回る。

 

疲れを知らない幼子の走り回るのにつきあい、おぶわれて眠り込むまで遊んでやるのが廉造の役目で、弟妹がいたとはいえ手伝いのものも大勢の中で育った身には、二歳のこどもと相対して先生の大切なご長男ならばケガでもあったら大変と気も張り続けどおし、ようやく昼寝に落ちて静かな寝息を立てている脇で、絵の勉強をしようとして紙を広げて筆を持ったまま廉造自身も眠り込んでしまうこともあった。

 

梶田半古はそのころ愛妻を亡くし深い哀しみに耐え難い日々を送っていた。ともすれば自身も黄泉の国に引きずり込まれそうになるほど、波のように襲い来る憂いをほんのひと時でも忘れようとするのか、毎夜のように、神楽坂の料亭へと出かけて行く。帰りはきっと日付が変わった一時二時で、それを書生である廉造は、礼儀正しく出迎えるようにと、兄弟子から作法の注意を受けていた。毎夜、人力車が門の所で「お帰りッ」と声をかける。門から敷いてある御影石に俥がガラガラッと高く響く。それを聞くやいなや、玄関に飛び降りてさっと戸を開けて「おかえりなさい」と深々とお辞儀をし、俥から降りる半古を出迎える。これが毎晩である。たまには昼間の疲れで眠くて仕方のない廉造は、出迎 えるつもりでも玄関の脇で眠りこけ、自分で戸を開けて帰って来た半古は困ったような顔をして一瞥するような夜もあったが、それを起こしたり叱責したり、翌朝説教をするということもない。

 

こういったこの家での生活のすべて、そして絵筆の握り方の手ほどきまですべてを教えてくれたのは一年あまり早く弟子入りしていた小林古径であった。二つ年上の小林古径はすでに日本美術院に出品して、一等褒状を得るほどの腕前を持っており、寡黙であったが親切で、廉造はこののち兄弟子として、生涯にわたって慕い続けるのである。絵の勉強ができる、と意気込む廉造は書生として家の用事や、師匠の道具の片付けなどを教わると同時に絵の勉強を始めた。

 

 

つづく