2-14 半古塾 その一

まずはすべての梶田半古の弟子、というよりも当時のすべての歴史画家が学び、取り組んだのは「前賢故実」の模写であった。

 

明治初年に刊行された、全十巻からなるこの木版本は、 江戸に生まれた菊池容斎が歴史的人物を考証して、その姿を描き、略歴を書いたものである。近代歴史画の画題はほとんど網羅されているといっても良いほどの多大な影響を与え、五百八十図、五百八十五人の古代から南北朝時代までの人物の姿が描かれている。また構図も非常に斬新で、のちの多くの画家の着想の元となっている。これを、梶田半古が重視するのは自身もこの本によって、絵を学んだという過去があったからである。

 

梶田半古は明治三年東京生まれ、十三歳のときに浮世絵画家に入門するが、一度は眼病のために絵を諦める。失明も覚悟したのであろうか、遊芸の道、琴の修行に明け暮れる毎日であったが十五歳で、病が癒え、再び画家を志したのである。

 

明治六年のウィーン万国博覧会で、日本の出品した美術工芸品が好評を博し、輸出用の美術工芸品制作する「起立工商会社」が設立されたのは明治七年のことであったが、明治十九年より半古はこの起立工商会社のために工芸図案や日本画を描く仕事を始めた。この会社では当時の大家と呼ばれる画家も多く仕事をしていて、その中に、菊池容斎の孫弟子にあたる鈴木華邨がいた。この出会いが梶田半古を画家の道へと大きく動かすこととなる。梶田半古は十歳年長の華邨から様々なことを学んだ。中でも、前賢故実を教えてもらったことは大きく、梶田半古はこれを研究し、すべてを模写して暗記するほどの打ち込みようで、この模写によって人物画を独学で習得したと言っても過言ではない。このとき 、梶田半古十六歳。すでに絵の技量は高いものがあり、東洋絵画共進会にてこの年褒状を受け、梶田半古と名乗るようになった。

 

明治二十六年、半古二十三歳の頃には、最初の門人を受け入れ、画家としての様々な活動を行うようになる。三十歳の頃には、読売新聞に入社し、尾崎紅葉訳の「寒牡丹」挿絵の仕事を皮切りに、文芸雑誌の口絵、挿絵の仕事をさかんにするようになっており、梶田半古の塾には、多くの塾生が集まるようになっていた。

 

挿絵の仕事、弟子の育成と同時に、自身の絵も積極的に発表し、明治三十年には、梶田半古も発起人の一人で有った日本青年絵画協会が、日本絵画協会と改称し、絵画共進会を開催したが、そこで一等褒状を受け名声は高まっていく。明治三 十一年には、岡倉天心を中心に日本美術院が創設され、日本絵画協会と合同で絵画共進会を行うようになり、梶田半古も美術院の賛助会員となり以降毎年のように出品していた。

 

前賢故実のために菊池容斎は、弟子に時代の衣装を着つけて写生したり、人体をより正確に描くために弟子の裸の写生を行っていたと聞いていた梶田半古は、自身も絵は写生に基づくことを第一とした。また有職の知識も豊富で、鎧や兜の研究にも熱心に取り組み、容斎とならってのことか、狩衣など時代の衣装を収集していて、それを弟子に着付けさせて写生を行う研究会も開いていた。

 

 

つづく