2-15 半古塾 その二

昨日、通いの手伝いの婆さんに命ぜられて軒にかけた干し柿の朱が小春日和の真っ直ぐな光に照らされている。

 

この日、月に一度の研究会が梶田半古の家で開かれていた。一番年若の廉造は、ごわりとした薄緑の狩衣を着つけさせられている最中で、ぐるりと先輩塾生と梶田半古に囲まれている。着付けも勉強のうち、と二人の門人が、下着から単衣、指貫と呼ばれる袴のようなもの、そして狩衣を着付けしていく。立烏帽子をかぶせられ、最後に帖紙(たとう)の束を渡されて、懐に入れた廉造は「もう少し、扇を上げて、目はあっちの欄間を見なさい」と半古の指示で、右手に持った扇をかざしていた。

 

「よし、そのまましばらく」と初めてモデルを命ぜられた廉造が、身じろぎも許されぬと緊張して 立ち尽くす間に小林古径をはじめとした門人たちが絵筆を動かしていく。梶田半古はそれを見ながら、狩衣の歴史を語っていった。狩衣はその名の通り平安貴族が狩りに用いた動きやすい衣装であること、単衣と指貫、狩衣の色の組み合わせに凝っていたこと、狩りのための簡素な衣装という扱いで決して宮中昇殿は許されなかったことなど、さまざまな知識を弟子に教えていくのであった。

 

「袖の先についている紐は、袖括りの紐と言って、平安時代には狩りの時に実際に絞って使っていたが、後の世には実用性は失くして装飾となっていった。この紐の形は薄平といって中年までの頃に使ったもので、年をとると紐の種類も変わるし、使う色も地味になっていく。そういうことも勘案しながら誰を描くか決まった ら調べていくものだ。同じように見える装束も、寸法も紐の結び方も許される色、模様もすべて異なる。そうしたことを知らず に絵は描けない」静かだがよく響く師の声を聞きつつ、畳に置いて描くものもあったが、外で写生をするときには床などない、という半古の一声で、紙の束を左手に持ち、さっと右手で描いていくものがほとんどで、その先輩の筆の運びの速さについ見とれていると「おい、目が下がったぞ」とお叱りを受ける。

 

終了の声がかかるまで、じっと姿勢を維持するのは大変であったが、それでも絹の軽やかな質感や、張りのある衣装のかたちの面白さに、着てまたわかることがあるのやなあとひとりごちる。普段の筒袖とは違った体の動きをしなくては袖が床についてしまいそうで、こうして着付けされれば、表面からは見えぬその下の体の動き、衣装の作りや紐の掛け方を知ることができる。絵の表面には描 かぬその 深層を知ることがどれだけのちの画業に役に立ったことか、写生の大切さをこうして廉造は叩き込まれていくのであった。

 

真新しい筒袖に袴をつけて、「行ってまいります」としに挨拶をした廉造の今日の使いは、尾崎紅葉のところに手紙と到来物を持って出かけることである。紅葉の宅は、神楽坂の上の台地にあり、梶田半古の家からはほんの十分も歩けば着いてしまう。玄関先で書生に取り次いでもらう間も、紅葉のよく響く声が階下まで響いてきてその勢いに自然とこちらの気力も増すように思えるのが常であった。

 

返礼を受け取り、お暇乞いをして戻る廉造の眼前に冬枯れして空に細い枝を刺そうとする楓の幹ごと、北風にあおられて揺れている。空は明るく曇っていて、一面に均等に白にわずかな霞が入った色が広がっている。ほのかな香りについと見上げれば蝋梅が一つ、二つ、花開いている。暗くなりかけた往来 に、蝋梅の黄色はまるで足元を照らすかすかな灯りのようで、わずかな光量でも香りが行く道を示してくれているかのようであった。昨日国から届いた綿入りの紺絣の着物は少し、すでに小さく、自分の背が伸びたことを今度の手紙で知らせなあかんな、とちらりと思い故郷を思い出したが、それも一瞬のことで、すぐに思いは取り組んでいる絵とその出品のことでいっぱいになる。

 

今年三月に開かれる日本美術院、日本絵画協会第十二回共進会展に金子家忠を画題にして出品することは、師から勧められたことで、また馬上の武者絵は当時定番の画題であった。良くある絵、であるのに、構図を決め、取り組むのは思った以上のことで、荒ぶる馬、武者が身につける鎧の詳細を描こうと思えば、細部に目を凝らし、 また引いて全体を見て、と無我夢中で取り組まねばとうてい出品予定日にまでに仕上がりそうもない。そもそも下図を描き、絹本にうつして着色、その色を付けるにかわの練り方も、兄弟子である小林古径に教わりながら、ようやく覚えたのもわずか一ヶ月前のことなら、まだ何もかも手探りで、それを思えば不安が薄曇りとなって、心を覆ってしまいそうになる。それでも生来の前に進むしかない、という気性のおかげでどうにか悩みに溺れることなく、日々を進めているのだった。

 

 

つづく