2-16 半古塾 その三

年明けすぐに始まった制作は、まずは小下図を描いて半古のもとに持っていき 、細かい指導を受けて直し、ようやく構図が決まると尺五に定規を用いて引き伸ばしていく。

 

尺五とは一尺五寸のことで、掛け軸にする絵の決まった寸法であり、横幅はほぼ四十センチといったところであろうか。その直し方を兄弟子に教わりながら、また師の元に持っていくとその上に紙を当てて直すように指示されて、絹に描くときになればまたひとつひとつ教わって描く。何度も繰り返しやり直して、ようやく描き上がった絵を前にして、「うむ」と一言発した梶田半古に、体じゅうの力が抜ける気がしたのもほんのひと時の間であった。

 

かしこまって座っていた廉造は、息を継いで、緊張しながら雅号の話を切り出した。「先生、ぜひ号を頂きたく存じます」と手をついた廉造に半古は至極あっさ りと、「そうだな、前田、だから青邨がよかろう」とさらりと手元の筆で号を書き渡し、廉造はこのことに目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。

 

当時、梶田半古の高弟十名ほどは、小林古径をはじめ皆「古」の一字をいただくのが通例で、自分も当然、その一字を授けられるものと思っていたのである。呆然として部屋に戻り、憤慨のあまりたったいま渡されたその紙を握りしめているのにも気づかないほどであった。翌朝、通ってきた小林古径にこの顛末を訴えると、生来無口ながらも、言葉を選び選び「きっと先生にはお考えがあるのだろう」と静かに諭し、廉造はしぶしぶながら「青邨」という名を描く稽古を始めた。なにしろ「邨」という字は書きにくく、形が取りにくい。ぶつぶつと思いながら書き 重ねている ときに、小さく小林古径が「そういえば、先生の先生は鈴木華邨で同じ字だから、先生は君により期待されているということかもしれんぞ」とつぶやいた声も耳には入らなかった。

 

明治三十五年三月、日本美術院、日本絵画協会第十二回共進会展が上野公園にある、旧博覧会五号館にて開催された。明治十年から始まった内国勧業博覧会のために建築された旧博覧会五号館は、堂々たる欧風建築である。袴をつけてこの中に自分の作品が横山大観、川合玉堂、橋本雅邦といった大家のそれととともに並んでいること自体に、廉造は目のくらむような思いで入り口に立った。

 

新進気鋭から重鎮まで東の日本画家の主だった顔ぶれが勢ぞろいする日本で最高峰の展覧会ということで、関係者のみ ならず一般の注目も高く、初日から会場は人で溢れている。共に訪れた小林古径にくっつくようにして混み合った会場を歩き、大作に見とれていると、「こっちだ」と連れられて行った先に、自分の絵が展示してあった。画面いっぱいにあふれんばかりの勢いを描いた馬上の武者絵である。その右に「金子家忠 前田青邨」と札が出されその上には、「三等褒状」と墨で書かれた札が貼られている。廉造は足が震えてくるのを抑えることができず、知らず唇を噛み締めて、涙をこらえるのに必死であった。「うん、よくがんばったな」と平素無口な古径が一言いい、ふわりふわりと宙を歩くような気持ちで廉造は梶田半古の家に戻った。

 

 

つづく