2-2 廉造 その二

常吉がそれまでの玉繭の商いを続けられなくなったあと、乾物を売り歩きながら少しずつ店を立て直し、それが安定してきたのはつぐみの麹漬を売り出すようになってからのことである。数年で再び、旦那衆の一人に数えられるようになるほど、持ち直したのはひとえに「火の玉」と呼ばれた一途で熱い性格のおかげで、あれ以来相場には近寄らず、固い商売に徹したおかげで、一度は失った宿場町での信用も取り戻したようであった。

 

今、惣領息子の悦吉、次男の廉造、三男の由助と男の三人にも恵まれ、長女のトメは昨年の明治二十三年に幼い命を再び天に返したものの、残る子どもたちはすくすくと育っている。

 

明治五年に発布された学制は、近代国家としてのいしずえとなる教育をそれまでの身分の違いに関わりなく、等しく受けさせ学ぶというもので、主に士族が教師として全国的に学校が作られた。ここ中津川にも明治六年に簡易な初等学校が開設され 、それ以来、市岡家の一部を借りたり、本町の芝居舞台を改築したりして小学校としていたが、明治十九年に念願の新校舎が立ち、同じ年に森有礼文部大臣が発布した小学校令により、中津川尋常小学校となった。いまそこに通う、悦吉と廉造は、毎朝、中山道を西へと四ツ目川まで出て、川沿いの坂をゆるゆると上がって、さらにあぜ道を西へと向かう。

 

その兄と学校へと出かけるまでの時間、廉造は筆を取り反故紙の前から動こうともせず、ひたすら何かを描いていた。それはこの時期の庭先には山のようにうず高く積まれたつぐみであろうか、鳥のような形あったり、棒のように見えるのは目の前の父の煙管であったりするのかもしれないが、そんな反故紙はほとんど黒くなるまで墨がのせ られたあと、夕方にはさっさと女中にまとめられて、晩の食事の支度をするときの火を付ける紙にされるのが常であった。飽きもせず毎日、何描いとるんやろなあ、と母は女中と笑っていたが、子どものほんの遊び、と思っていたこのことがのちに文化勲章をいただき、皇后陛下の絵の指南役を仰せつかるほどの日本画家の黎明であったといえようか。

 

悦吉と廉造が「行ってまいります」と父である常吉に挨拶をして学校にいくころには、中津川宿の西のはずれである茶屋坂から朝一番の木曽からの馬が到着したのがちょうど学校へいくのとは逆方向に見えることもあった。

 

木曽からの、また木曽へと出される荷は、険しい峠を幾つも越える山路のことすべて馬が運ぶが、腹掛けをして鈴をシャンコ シャンコと鳴らしながら馬子に曳かれて、白い息と体から立ち上る湯気のような体温を霧のようにまとわりつかせながら二十頭、三十頭とおりてくるのである。木曾馬はずんぐりと丸っこくいかにも丈夫そうな太い足をして、背は低くともそれだけの数が集まって来れば、それはそれは壮観で、まだ小さなこどもたちは大騒ぎをしてまとわりついて馬子に時折大きな声で追い払われていた。廉造もつい立ち止まって、後ろを振り返りじっと見つめているのを兄に引っ張られるようにして、学校へと向かうのであった。

 

 

つづく