2-4 本郷根津 その一

廉造が小学校を卒業する前年のこと、幼い妹であるフデが長女に続いて、ひとりまた天に命を帰したのは、桜が固い蕾をほどこうとして、ほろりほろりと気の早い一輪、二 輪を咲かせはじめたころのことであった。

 

身篭って、大きな腹をした母であるタカの嘆きは尋常ではなく、小さな声で名を呼びながら、まだ生え揃わぬ前髪を何度も何度も自分の櫛でとき、赤いべべを棺に入れてやりたいと言い張った。しとしとと降る花冷えの雨の中、小さな柩の葬列を出した後は、ぐずぐずと泣き伏して、起きることもままならない日が続いた。

 

腹の子にさわる、と皆がやきもきし、とにかくも夏の出産を終えた後、産後の肥立ちが良くないのか少し起き上がって用事を済ますことはあっても、すぐに横になろうとする。産まれたばかりのすずと名付けられた女の子は、女子衆の気働きで乳母と、子守に守られてすくすくと育ってはいたが、しっかりとした気性で嫁いでから働き者で通して きた母がそんな具合となって、誰しもがそれは子を失った悲しみと、出産の疲れにしては過ぎてはいないかと気づき始めたころには、すでに食事も喉を通らず、床上げすることもままならぬようになっていた。

 

はじめは気の病で医者にかかるほどではない、という思いと、医者にかかることでそれが限りなく残酷な宣告を受けることになるのではないかという暗い予感で、なかなか思いきれない日々を過ごした常吉であったが、ある日近所のおかみさんに「最近、ねえさま見んねえ、どうしとらっせるの」とたずねられたあと、ふと思い立つようにして医者を呼びにやった。

 

医者の見たては労咳、つまり結核であった。小さな背中を丸めて、時折、苦しそうに寝床から起き上がり、哀しげな咳をこほんこほん と繰り返すタカに、効く薬がないのは承知でも、滋養をつけるという漢方薬を煎じて飲ませるようにと女中頭に命じた。子どもたちには常吉は何も言わなかったが、時折店を閉めたあとの暗い帳場で背を周りに向けるようにしながら、頭を垂れて、うっすらと目を赤くしていたのを悦吉は気づいた。それは太閤秀吉のようと、学校の教師がいささか揶揄を込めて父を評していた、その抜け目のなさ、ここと思ったところで周りの意見など耳もかさず突き進む姿からは想像できぬもので、家の一番奥の暗い部屋で寝かされている母に将来がさほど残っていないことを暗示させるに十分であった。

 

廉造が絵を描いて生きて行きたいという心を決めたのはいったいいつのことからだろうか。親類縁者に絵 を描くような、風流といえば聞こえはいいが、余裕のある人間もいないにもかかわらず、絵に向かおうとする決意は小さな体に持って生まれた宿命として、まるで磁力を持って道を進めようとしていたかに思える。尋常小学校の四年を終え、尋常高等小学校へと進んでからずっと、字ではなく絵を描いていた気さえするのであった。

 

 

つづく