2-5 本郷根津 その二

絵描きになりたい、と夢想はしても、それで食べていけるわけがないと父はにべもなかった。

 

無理もない、絵といえば浮世草子か、襖絵か、まあよくできて山水画を軸にするか、といった時代のことである。絵を見たとしても、たんなる飾りといったところで、それが誰がどのように描いているかなど、想像しえない。それでも商売が少しずつうまくいくにつれ、座敷に招く客も増え、そうなれば軸や壺もそこそこのものが欲しくなって来る。そうした美術屋、骨董屋が名古屋から中津川の名家に来たついでにちょいと店先で話し、ときには小品を買うこともあった。

 

「ま、ちょっとお茶でも飲んでかへんか」と珍しく常吉に座布団を進められ、不意のことに目を白黒させながら、麻のきものを着た骨董屋が奥に通されると、「ちょっと聞きたいんやけどな」と常吉が絵かきの暮らしとはどのようなものか、そして東京の美術学校とはなんぞやと、聞き出したのは、廉造が小学校を終えた明治三十年の夏のことであっただろうか。

 

明治になり、近代化の呼び声の元に新しい学校はどんどん生まれていた。廉造の尋常高等小学校の教師があるとき、そんなに絵が好 きなら、京都や東京には画塾もあるが、これからの時代は東京の美術学校に行くという方法もある、と語ったことがあった。

 

木曽の山々に囲まれた土地であっても、中山道という街道に生まれ育てば、東京からの人の行き来、文物は知らず知らずに触れていて、美術学校がいったい何かはよくわからないまでも、それこそが進む道ではないかと、ぱあっと曇り空から光がさしたように感じたのであった。つい前につんのめるようになりながら、東京の美術学校とは何かと尋ねると、明治二十年に設立された美術の専門学校で、そこに入るには中学校を出なくてはならないということであった。

 

その話を父にしてみたが、学校など尋常小学校で十分、と考えていた父にはそうたやすく理解してもらう ことはできそうもない。田舎の小商いをしている家から、東京の学校へ進むということがどれほど途方もないことかということも同時におぼろげながらわかってくる。中学校まで進むものは、華族、士族に力を持ちつつあったブルジョワ層が主で、授業料に加えてかかる費用もかなりのものであった。

 

それは「廉坊は、絵描きになりたいんやて?へーえ」と言ったなり絶句して、想像もつかぬことに目を白黒させる親戚の女たちや、「まずは、修行して立派な商人になったらええに。それで絵は趣味でやったら、ええ旦那さんて言われるで。まずは商売おぼえな」と同宿の老舗の若旦那に、諭されことからもうっすらと理解はできたものの、それで諦められるようなものではない。小学校を卒業したのだか ら身の振り 方を考えねばならぬのに、廉造はいっこうに商売には興味を示さず、木曽への掛け取りにのんびりとでかけるくらいであった。

 

そんな中、母は絶対の支援者であった。母の兄の一人は、東京に東濃館という下宿を経営していたのである。それは東京帝国大学の門前、本郷根津にあった。大学が出来てからというもの当時はそれぞれの「お国」の名をつけた下宿屋や宿屋が大都市にあるのが普通で、田舎から出て行った者の受け入れ先としてこれ以上都合の良い場所はなかった。

 

常吉が「東京の学校」について聞き回っては少しずつ理解を見せようとした気配を感じるやいなや、「東京に行きたいのやったら、おじさんを頼ればいい」と母は枕元に筆と硯を持ってこさせ、すぐに伯父に手紙を書くよう廉造に筆を取らせた。

 

 

つづく