2-6 本郷根津 その三

いつものように慌ただしい秋と冬が過ぎ、春には、手紙のやりとりで廉造の東京への進学が決まった。

 

その前年の明治三十年に設立されたばかりの私立学校、京華(けいか)中学校は、一高への進学校として設立されたために教師も優秀との評判で、何よりも本郷龍岡町にあって伯父の下宿屋からは通うのにも東京帝大を挟んで目と鼻の先、常吉の家から廉造が通っていた尋常小学校への道よりも近いから安心するように、と書かれた伯父の手紙を読みながら、「それなら田舎ものが行ってもあんきやわ」と悦吉が言い、家族で大笑いしたとき、母がほんの少し体を起こしながら一番嬉しそうな顔をしていたことは廉造の忘れられない記憶となった。

 

桜が終わり、初々しい緑の葉が山々をいっせいに湧き立たせるころ、母は静かに息を引き取った。やせ細り、小さな亡骸を囲んで皆で静かに泣いた。明治三十一年五月のことであった。その日の空は青く澄みきっていて、それなのに手が染まるほどに見えた。穢れを止める白い半紙が神棚に貼られて、神主がやって来て営まれた葬式には、母の里から親類も大勢来、兄である本郷根津の伯父もはるばる東京からやってきた。

 

常吉が礼を言いながら、次男坊をよろしく頼むといったようなことをくどくどと言う間に、てきぱきと細かく列車に乗る方法を指南した。もちろん家族の誰も列車など乗ったことも、見たこともない。その不安を取り除くかのように、名古屋で乗る日時と、切符の買い方、そして新橋 駅で待っているからとまで教えてくれた。「どさないに、乗れば着くで」と鷹揚に言う伯父は、聞けば営む下宿屋は東京帝国大学の学生がほとんどで、耳学問ながら東京の学校事情にも詳しく、これからの時代、中学校で学ぶことの大切さを誰から聞いたのか、大演説し、常吉も得心した様子に皆が安堵したのであった。

 

通常の檀家なら七月に新盆をとりおこなうところだが、神葬で行う常吉の家では「おっさま」と呼ぶ坊さんの来訪もなく、簡素な祭壇をしつらえて、五十日祭を行った。そして、十四歳の廉造の上京する日がやってきた。母を失ったばかりの家で、さらに頼りの兄のひとりがいなくなることに弟妹の小さくしょげかえっている様子を見るのはつらかったが、それ以上に東京に行くこと、絵の勉強をして洋々たる未来を思い描くだけで胸は、はちきれそうに期待に膨らんでいた。

 

あらかじめ、何を持っていくべきかを伯父に問い合わせていたが、下宿屋のこと、布団なども送る必要はなく「入り用の物はこちらで買えば良い」とのことで、着替えを何枚かと、土産は常吉があつらえてすでに東濃館宛に送ってある。暗いうちに起き出して、さっと行水し、母の位牌の前で念入りに手を合わせた廉造は、店の前で、家の者一同、常吉の実家である大惣からの親戚や友人に見送られ小さなカバンに今日の分の握り飯を風呂敷に包んだものだけを手に、中津川を旅立った。帽子をかぶり、真新しい絣の筒袖に袴姿の少年の熱い心を、朝露が穏やかに和らげるような明治三十一年の夏の朝のことであっ た。

 

中津川から中山道を東へと向かい、八キロ足らずの大井宿は、その手前で秋葉道、大井で中馬街道、つぎの大湫宿への途中で名古屋に向かう下街道が分岐するいわば交通の要所で、旅籠も俥屋も多い。そこまで歩いて行き、名古屋までの人力車を雇うことにした。大井なら、名古屋までの距離もものともしない車夫がたくさんいる、と常吉は町の人から聞いて来たためで、大井までは兄が見送りに着いていくことになった。

 

大井へと向かう道すがら、何度も振り返っては青空のもとに刻一刻と姿を変えて行く恵那山を見つめる廉造に、今年二十歳になろうとする兄は、家のことは任せておけといったようなことをしきりに話した。そろばん勘定にうとい廉造には、よくわかっていなかったが、 伯父の下宿屋に身を寄せるとはいえ東京に暮らすということは寄宿代、中学校の授業料、その他にかかる費用、卒業してから美術学校へ行くならば、その間はすべて仕送り頼り、その後も生活のめどが立つのか立たぬのか、画業に生きたいという弟をいつまでともわからぬ支援する決意を、おっとりとした見た目の二代目となる運命の悦吉はこのときすでに持っていたのであろうか。

 

 

つづく