2-8 本郷根津 その五

廉造には、一階の家族の居室の隣にある四畳半の部屋が与えられ、伯父やその妻、下働きの女中までが朝餉の仕度、掃除、洗濯、夕食の世話に働き続ける東濃館での賑やかな毎日が始まった。

 

下宿をしている学生は、ほとんどが東京帝国大学の学生で 、常時二十名を下ることはなく本科生も専科生もいたが、どしどしと歩く姿は見上げるように大きな大人の男に廉造の目には見えた。東濃館の朝は慌ただしく朝餉の膳を各部屋に届けるところから始まる。飯炊き専門の女中が汗をかきながら炊きたての飯と味噌汁、それに香の物を用意して、階段を駆け上がるようにして三人の女中が配って歩く。学生たちが出かけて静まり返ったあとは、掃除や、洗濯、繕い物まで頼まれることもあって、忙しげに働き続けている。

 

ところは変わっても、賑やかで皆が何くれと世話を焼いてくれる場所に居場所があることは何よりもありがたいことであった。いよいよ中学校が始まるという日、嬉しそうな顔をした伯父は、常吉よりも亡き妹の面影を宿す廉造に、妹の分までいたわりを持ちたいと思っていたのではなかろうか。

 

真新しい中学の制帽をかぶり、九月の入学にどれほど心踊らせたかわからない廉造であったが、残暑のようやくおさまり、東京でも虫の音は変わらんのやな、と思いながら課題の書籍をめくり過ごしていた秋、夜になるとコホンコホンと軽いものではあるが、咳がずっと止まらなくなることがいく日か続いた。

 

軽い風邪かと思ってもなかなかすっきりとはしない日々が続き、秋が終わった後も咳の止まらぬ廉造に、東京の冬の空っ風が合わぬのだろうかと、伯母は心配して綿入れを作ってくれた。「どっか痛いか?」と聞かれれば「このあたり」と右胸を指したり、背中が張ると呟く廉造に「東京に来て、そら全然違う家に寝起きするのやから、気も張っとったんやし、疲れも出るで、そういうこともある わ」と皆が励ますように言うのだが、学校の終業後、東濃館へ帰る途中の本郷のゆるい坂も息苦しくなってきている。

 

それを押して日々を過ごすことのできるほど廉造は若かったが、ぐっと冷えて来たある晩、夕食の後で静かに教科書を開いていたところに、突然ひどく咳き込んで手ぬぐいを口に当て、ようやくおさまって手を口から離した刹那、目に飛び込んだ白に青の豆絞りの手ぬぐいの上の鮮血に、驚きのあまりしばらく動けなくなった。様子がおかしい廉造にいち早く気づいたのは伯父の妻で、すぐに伯父を呼んだ。妹、つまり、廉造の母を肺病で亡くしている伯父は、すぐにこれが看過できないことであると判断して、次の日、すぐに近所の医者に往 診を頼み、手を引っぱるようにして連れてきた。

 

青い瀬戸物の手焙りにかけた鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を立てている部屋に廉造は寝かされ診察を受けた。本郷で開業したばかりという若い医者は難しい顔をして、いくつか質問をしたあとで胸の病で母を亡くしたばかり、という伯父の説明に、大きくうなずくようにしたあと「この病気には、静養が一番です」と静かに告げた。どこもかしこも普請に忙しなく、ほこりっぽい東京を離れ、空気の乾燥した暖かい場所に転地療養することをすすめた。伯父は幾人かのつてを頼り、すぐさま廉造は静岡県吉原に転地し、療養生活を送ることとなった。

 

意気揚々とやってきた東京をこんなにすぐにあとにしなくてはならないことに、廉造はひどくかなしい思いもあったが、それよりも今は、医者の言うとおり、療養して治療しなくてはとの思いでいっぱいであった。

 

再び、やって来た新橋の停車場から今度は、伯父と二人、静岡に向かう。道中、「きっと治るでな、おとなしくして、養生するんやぞ」と伯父はこんこんと小さな子どもを抱きかかえられるようにして言い続け、廉造は、微熱でもあるのかとろとろと眠り続けた。

 

 

つづく