2-9 帰郷 その一

熱海を過ぎ、鈴川に着いた二人は小さな宿屋に宿をとった。あくる日、さっそくに診察に訪ねていったのは青山というそのあたりでは、評判良く、いわば名医として信頼されている医師であったが、じっくりと廉造のからだを検分したあと、伯父を呼び、静かに「これはだめだから故郷に帰って療養しなさい」とすすめた。

 

つまるところ、肺病に侵された廉造の体は、ここで療養しても治る見込みはない、故郷で死を迎えるのがよいという宣告であった。ここでもやはり、母を亡くしたばかり、という言葉に医師は頷き、憐れむような目で見送った。当時労咳は、死亡率が高く、血痰を出したという廉造の体は、すでに死病にとりつかれているという見たてであったのであろう。

 

しかし、廉造も、家族皆も、ここで死ぬわけにはいかないという強い気持ちを持っていた。伯父は、「中津のあのつべたい空気では治るもんも治らん」と断固としてここに残ることを主張し、父、常吉に説得の手紙を出した。

 

そのとき、脳裏をよぎっていたのは、中庭に面した湿気の多い中津川の家で、静かに息を引き取った妹の面影であったであろう。もともと、伯父がこの静岡は吉原に転地を勧められたのは、以前東濃館で働いていた女性の縁であった。新派の俳優、喜多村縁郎の姉であり、気っ風のよさは江戸仕込みというその女性のおかげで、吉原にある眼科に寄宿することになり、そこでゆっくりと養生をさせてもらうこととなった。

 

伯父は「しっかり治すんやぞ、ぜったいに治るでな」と何度も廉造に言い、眼科の医師や看護婦にまで幾度となく腰を折って東京へと帰っていった。吉原はすぐ北に富士山をのぞむ、美しい土地である。肺病には動いてはいけないというが、天気のよい日に外に出て富士山や海を写生することがいくばくかの慰めであった。京華中学校は退学を余儀なくされたが、おれは治るぞ、治 って必ず絵描きになる。と決意を新たにしたのである。そんな思いが天に通じたのか、病は二ヶ月を過ごすうちに廉造の体から消えていったのである。

 

冬も乾燥して暖かい気候がよかったのだろう、胸の病はもう心配ないとの医者に太鼓判を押され、全身の力が抜けるほどの安堵と喜びを感じたのもつかの間、廉造はとりあえず故郷に戻って来いとの父の手紙に決まりの悪さと、落胆とでしばらくはため息ばかり出る毎日であった。

 

期待に胸を膨らませて出立した故郷に、一年もたたずに戻ることになろうとは。世話になった眼科や医師に別れの挨拶をし、東海道線を下り、名古屋から人力車で大井宿、そこからも俥を雇うようにとの父の命令で、人力車を乗り換えて中津川に向かった。山々が近づいてくる中津川への道はまだ山々は冬枯れの寂しさで里を包んでいたが、ところどころに残る根雪と同じように白く輝くような白梅が咲いている。雲の切れ間に、青い空が見え、それをぼんやりと見つめながら時折舞う風花に、首を縮めて故郷へと帰った。

 

母の待たぬ家はそれでもにぎやかだった。廉造をのせた人力車が着くやいなや、番頭をはじめ、丸に常の文字が染め抜かれた紺の前垂れをした丁稚や男衆もわらわらと店先に 集まって来、皆に抱きかかえられるようにして「さあさあ奥へ」といざなわれる。そこではまた女子衆の寒さで赤らんだ顔がさらに赤くなり、「おかえりや、おかえり」と大きな声で叫んでいる。よちよちと歩く妹は見覚えがあるのかないのか、それでも嬉しそうに膝下にやってきて、兄も優しく出迎えてくれる。

 

父は小さな体にあいかわらずの眼光で一瞥して、それでも本当に病が癒えたかを確認して安堵しているようだった。神道に宗旨替えした家では、仏壇はなく、神棚ふうにしつらえた御霊舎に母の白木の位牌がある。その前でろうそくをつけて手を合わせると、あらためてこの試練を乗り越えたことの喜びと、母のいない寂しさを思うのであった。

 

 

つづく